生活支援センターとして、事務所、ショートステイ、ヘルパー派遣などを。
行政からの補助は、4年もらえず。私的契約オンリーで4年やった後。
支援費制度が始まり。他の拠点も増え。
最近はずっと、共同生活住居(ケアホーム)として利用していた拠点を。
新しいホームが出来たので、みんなそっちに引っ越し。
他に使う予定もないので、大家さんに返却ということになりました。
14年前。開所のタイミングで朝日新聞さんが取材をして下さった時の写真。
俺、ほっそ〜!(^_^;) 無職の生活で食うや食われずやだったからかなぁ。。。
一緒に写っているのは、ふわり創業3人衆のひとり・田中幹央君と。
なぜか、その時、この家に半年住み込みたいと転がり込んできた吉原望。
今日は、僕も最後の思い出作りで拠点に行くと思ったので。
それに相応しい、スペシャルゲストをお呼びした。
ふわり創業3人衆・紅?1点。木口聡子と。
僕がふわり立ち上げ準備で1年無職で修業していた時代に。
簿記や労務管理などを勉強に行った学校で知り合い。
起業後も支援してくれた中村直子さんと。
あ。2人とも結婚して名字変わったな。何だったっけ?
3人で久々に集合。思い出話に花を咲かせました。
起業する前の準備段階の不安感。
反対運動を受け続けて、ふわりを起業する拠点が延々決まらなかった苦労。
近所の挨拶に一緒に頭下げて回って下さった民生委員さんへの恩。
好意的にふわりの活動を受け入れて拠点を貸して下さった大家さんへの恩。
大掃除から始まり、この活動を支えてくれた多くの人達の思い出と今。
アートスクウェアに移動して、ラーメンを食べながら、延々と話をしました。
長年使われていなかったこの建物を借りて。
なかなか開かなくなっていた雨戸を開けて、やっとの思いで部屋の中に入り。
掃除ひとつ、俺1人でどうするだよって思いながら白い息を吐いたときの心細さ。
そう思うと、今は本当にたくさんの人の輪がふわりと包んでくれていて。
本当に幸せだなぁと。いつも思います。
木口聡子の子どもが、せっせとほうきで掃除をしていました。
14年前、最後の日に木口聡子の子どもが掃除をしてこの拠点が終わるなんて。
想像も出来なかったです。
この6畳一間に、パソコンを置いて、ふわりのパンフレット作って。
利用者説明会やって。ヘルパーさん募集のビラを大学の校門前で配って。
僕しか介助出来ないようなシビアな人ばっかり集まっちゃって。
4泊5日のお泊まり介助とかざらにあって。
利用者さんが、施設や学校に行っている間に、布団部屋で倒れて仮眠して。
2時半になると送迎の車に飛び乗って、また、利用者さんを迎えに行っていた。
頭がぼ〜っとするくらい、ハードな日々だったけれど。
人間って良く出来ていて。過ぎちゃうと楽しかったことしか覚えてないや。
この窓から、よく車の流れを見ながら、自分がどんな地域福祉を作りたいのか。
延々、もんもんと考えたなぁ。
今は、それが、はっきり見えている。
自分の今生の間に、そのイメージが実際の実践としてはき出せるかで焦っている。
ノスタルジーに浸る暇もないくらい。過去の関係を引きずる猶予もないくらい。
でも。今後をぶれずに進むために。
たまには、こうやって、旧友と人生を振り返るのもいいなと。思いました。
何回か僕も泊めてもらったなぁ
それよりなにより、こうして戸枝さんとやりとりさせてもらえるようになったのは、
うち(寝屋川市民たすけあいの会)のボロボロの拠点にきたMさんが、私の大学時代のかかわっていたところの雰囲気にそっくりです。って言って一緒に行かせてもらったとこからですもんね。
うちは引き続きボロ屋で、やり続けていますが、なんか年月を感じます。
2階の本部に案内されて驚いたのは、ビリビリになったふすまをあけると山と積まれた資料と、予定表にビッシリと張られたふせんメモ・メモ・メモ・・・
何か衝撃を感じ、それから「ふわり」を追いかけました。
なぜだろう数回しか行って無いけど懐かしい場所です。
おつかれさまでした。
今は遠くからですが、進化する「ふわり〜むそう」を応援しています。
私にとっても、はじまりの地でしたね。
やはり、僕が憧れた?戸枝さんですね。
今は、創る、引き継ぐ、大変さを感じ始めてるとこです。
なかなかお会いできませんが、また、いつか。
元気でしょうか?いいキャラで好きでした。
naito様>進化するうちを撮り続けて下さいね。
(=^・^=)
市川ちくちく様>そうだなぁ。
あそこから福祉の仕事を選んできちんとやれている
んだから、立派だよな。
お互い体力落ちてくる年だけれど無理せず頑張ろうな。