自立支援法で入所施設が増えなくなった。でも。ケアホーム等が必要なだけ増えていたりはしない。団塊の世代が60歳を迎え。
いよいよ障がいのある子どもの家庭での介護負担に耐えられなくなり始めている。
しかも、その人数が半端ないですからね。団塊の世代は。
なのに。
ホームを作ろうと思うと。既存の建物の改築なんて、ほとんど不可能。
今、むそうでもホームのために既存建物の改築やろうとしていますが。大変!(>_<)
建築基準法で。消防法で。いろいろ面倒な規制がある訳です。
寄宿舎扱い(学生寮や社員寮などと同等)であっても。避難する経路は、天井上まで防火の壁入れろとか言われて。
家自体を全部壊さないといけなくなったりして。
そうだとすると新築のが安くなったりして。
そうだとして、そんなお金はどこからも出てこなくて。
さらに、福祉施設扱いになると。
ハードルはさらに上がり。廊下の幅が普通の家と同じじゃダメとか。
スプリンクラーがっちり入れろとか。そうなるわけです。
鳥取県で。すでに住んでいたホームが。
基準を満たしていないということでお取り潰しになりました。
「寄宿舎扱い」の基準に満たないと。明治時代の古民家ですよ。無理に決まってるわ。
障がい者は。古民家で暮らすというライフスタイルは選べないんですね。
そういうことですよね。最近。建築行政会議という建築基準法の運用を話し合う行政マン達の会議が。
「長崎、札幌と火事相次いだし。ホームはやっぱり福祉施設扱いで徹底指導してこう!」
「おう!」と決めてしまったとかで。この動きが厳しく加速しないか心配でしんぱいで。
ホームを作るときの問題として。もうひとつあるのが。「差別」の問題。
反対運動などが近隣住民から起こって。ホーム設置が出来ないという問題です。
岐阜県。僕から見てのがっちがち主観ですが。
最低ですね。差別禁止条例を努力して作るでもなく。地域福祉にチャレンジすることを放棄して。
病院や施設の敷地にホーム建設出来るという規制緩和。最低ですね。
ただ、そうでもしないと。団塊の世代の介護負担が限界を迎える中での。
家庭に変わる障がいのある方の命と暮らしを護る場は確保出来ないというリアリティが。
岐阜県には。間違いなくあるということも理解しているので。
この方向性を。僕としては断固認めたくないと思いますが。リアリティだとも思います。
こんな悲しい規制緩和が。リアリティになっちゃうくらい。ことは切迫しているのです。
そもそも。
6時間か7時間の支援である日中活動と。深夜早朝を含む15時間近いホームの支援とが。
ほぼ違わない報酬単価であるという。とんでもない運用が。大問題なんだと思います。
ホーム支援者は。夜眠れなくても夜勤じゃなくて、宿直扱いで介護報酬が算定されている。
こんなごまかしで。障がいのある方の暮らしにしっかりと向き合ってくれた。
心ある世話人、生活支援員の皆さんが潰れていくのは、悔しすぎる。
入所施設という仕組みでいいと思っている施設系業界団体と。
昼間の就労支援とか訪問系とかでの関わりしか。
自分達の守備範囲ではないから関係ないと割り切り。
ホームなんて夜勤あるし、報酬安いし、やりたくないねと思っている在宅支援団体と。
日本の障がい福祉の業界団体は。残念ながらそういう所が力を持っているんですよね。
数少ない。ホームを必死に作り。地域密着で頑張っている団体は。
日々が大変過ぎて業界なんて作れない。どうしたもんでしょうかね。
だから、誰も業界として老障介護問題を叫ばない訳です。
親の会とか。当事者団体が。そこを突かないとダメだと思うのですが。
ホームで。本人らしい暮らしを地域生活支援でと思っている比較的若い親たちは。
面倒な役割を嫌って。
政治や行政に働きかけをすることが出来る既存の親の会などには入らない。
だから。どんなに自立支援協議会やっても。障がい福祉計画作っても。
比較的若い世代の新しい形のニーズは。潜在化したウォンツのままで放置される。
その結果は自己責任か?親の自己責任は問えても。物言えない本人も自己責任か?
そして。刻一刻と。団塊の世代の介護負担限界という爆弾が爆発しようとしている。
なのに。工賃倍増計画とか。相談支援の充実とか。手の付けやすい。金のかからない。
本質問題から逸れた。上っ面な流れが、あたかもアリバイ作りのように流れている。
「ホーム倍増計画」が欲しい。
そしてそれは。立派はコンクリートのホームを作ってくれってことではなくて。
その地域の歴史と文化を受け継ぐような暮らしも出来る。
素敵な古民家でたおやかに暮らせるような。贅沢でなくても、その人らしい家が持てる。
建築基準法や消防法の無駄な押しつけをやめるルールにして欲しいってことです。
ホームは家だ。普通の家でしかない。そうはっきりと決めて欲しい。
法人と利用者の合意に基づく自己責任で。
もちろん必要な安全上の配慮を精一杯するという前提で。
古くても。ちょっと変わった構造でも。楽しく私らしく暮らせる建物なら認めて欲しい。
さらには。障がい者がひとりでいろんな人と暮らすことも認めて欲しい。
ホームの介護報酬が。ホームという建物に支払われているのではなくて。
ただ、本人の暮らしに必要な支援に支払われてるということに。個人に付いている介護給付であるということに。する必要があると思うのです。
障害程度区分に応じて。この位の支援がいる人だったら、その暮らしを支えてくれたらナンボ。
して欲しい支援の中身はこういうことと、こういうことでと決めて。
それを後見人や行政がやっているかチェックして。
報酬を払うという感じにならないでしょうかね。
建物から解放されれば。
息子2人が東京に行って帰ってこない元気な老夫婦の家に。
障がいのある方が下宿的にお世話になり。朝晩のごはんをその夫婦とともにして。
和気あいあいと暮らし。
夫婦が自分の年金+障がいのある方の家賃+αのお金を受け取るなんて感じの。
介護報酬が複層的に価値を持つ仕組みも構築出来るのではないでしょうか。
もっといえば。年老いた障がい者の親と。
障がいのある子どもが同居で暮らしていて、親が老いて支援が必要だとして。
子どもが親と同居でも。その親子が暮らしている家のままでも。
包括的な介護報酬が支払われる仕組みで。他人がその家に入り。
本人を支える仕組みができないでしょうか。
もう、そういった暮らしの支援まで睨まないと。間に合わないとひしひしと感じます。
そもそもの疑問としては。どうして障がい者は。
障がい者の集団と。グループで暮らさないといけないのでしょうか。
そういう意味で。
「ホーム倍増計画」は。建物の建設補助金増額というだけの意味ではなく。
介護報酬見直しと暮らし方や建物確保の規制緩和という方向性でお願いしたいのです。う〜。何か。思うこと有り過ぎて。取り留めのない文章になってしまった。(^_^;)
この問題は。1月のふわりんくるーじょんでも。
主題として取り扱いたいと思っているテーマです。
もう、障がい者運動とか、団体とかうんざりだなぁと思っていましたが。
僕の実現しなければならない仕組みが既存のものと違う以上。
社会提案する組織がやっぱりいりますね。
どの組織で誰と連帯して社会提案するのか。今、とても悩んでいます。